ノルマン・コンクエスト

今回はノルマンコンクエストという出来事について説明します。

ノルマンコンクエストというのは、1066年ノルマンディー公ウィリアムがブリテン島に侵攻し、イギリス王として即位、ノルマン朝を作ったことです。このノルマン朝は約100年ほど続くことになります。

 

1016年デーン人のクヌート王がブリテン島に侵入し、アングロ=サクソン系だった王位を奪いました。これによって古期ノルド語の語彙が当時の英語に混じることとなりました。その後クヌート王が死去すると、デーン人による帝国は崩壊して、再びアングロ=サクソン系のエドワードが即位しました。

その後1066年エドワードが死去しました。しかしここで困った問題が…。なんと後継者を指名しなかったのです。皆さん想像してみてくださいよ。例えばですよ。世襲系の巨万の富を持つ会社で死んだ社長が後継を指名しなかったとします。しかもその社長にはとても沢山の血縁者がいたとします。そりゃあ皆「俺が社長だぁ!」と名乗りを挙げますね。当時のイギリスでも同じことが起こったんです。

そんなこんながあって結局大貴族ゴドウィン伯のハロルドが国王になろうとしていました。そこで待ったをかけたのが、ノルマンディー公ウィリアムです。彼は死去したエドワードの母親エマの甥だったのでイングランド王位継承権があると主張しました。しかもハロルドは有力貴族の出ではあるのですが、王位継承権の保持者としては正当性が少なかったんです。はい、戦いが起こります。ハロルドは正当性が少なかったことや、当時イングランドの北方からもノルウェー王ハーラル3世が進行していて苦戦を強いられました。ハロルドは最初に北部でノルウェーと戦い、すぐに南下してヘースティングズに布陣、ノルマン軍を迎え撃ちます。これがヘースティングズの戦いです。ハロルド軍は歩兵が主体でしたが、ノルマン軍は騎兵が主体で、戦いはノルマン軍優勢のまま終わり、ハロルドは敗死して終結しました。こうして戦いに勝利したウィリアムは1066年12月25日イングランドウィリアム1世として即位しました。この後公用語はフランス語の方言の1つであるノルマン・フランス語が使われるようになり、宮廷などで使われるようになりました。なぜ「宮廷など」と表現したかというと、ここで面白いことが起こるからです。それは、言語の3重構造ができたことです。ノルマン・フランス語は宮廷などの支配階級でのみ使われ、庶民は英語、教会や教師は書き言葉としてラテン語を使いました。

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しかし、1205年ノルマン人の王ジョンがフランスとの戦いで敗れ、フランス北西部の領土を奪われてしまいます。これを皮切りにブリテン島の人々は敵のフランスではなく、イギリス人であることを自覚していきます。そしてこの後百年戦争に突入していくのですが、今回はやめておきます笑。

ノルマン=コンクェスト/ノルマン征服(世界史の窓より)